「いい曲」というのは、「曲自体がいい曲」と、「歌っている表現力」の、2種類に分けられるんだよ。

音楽を作っている業界の人には常識のことだと思うけど、

「いい曲」というのは、「曲自体がいい曲」と、「歌っている表現力」の、2種類に分けられるんだよ。

「曲自体がいい曲」というのは、「誰が歌っても」いい曲なんだよ。だから、辛辣な言い方をすると、歌っているのがその人である必要がない。誰が歌ってもその曲は売れるから、歌い手の差し替えがいくらでも可能だ。「曲自体がいい曲」とはそのことをいう。

一方の「歌っている表現力」というのは、辛辣な言い方をすると、曲自体は別に大して「いい曲ではない」んだよ。でも、その人が歌うとすっごく「いい曲」になるんだよ。だから、その曲が「いい曲」であるために、その人が歌い手である必要がある。それが「歌っている表現力」の意味だ。

俺は、文化放送の声優ラジオとか、文化放送系列の「超!A&G」の超ヘビーリスナー(だと自分で言っちゃうけど)、昨今の声優たちの出す曲って、ほとんどが「誰が歌っても」いい曲なんだよね。作曲家の作曲技術の蓄積の積み重ねによって「いい曲」としてすでにできあがっているものに、声優が声を当てているだけ。

だから、その人が歌い手である必要がない。

でも豊崎愛生が歌っている曲は違う。彼女は「自分が持っている人間としての表現能力」を使って、その曲を「いい曲」にしている。俺は、そっちの方が表現者として、本物だと思う。空前の予想外に大ヒットをした「Cagayake!GIRLS」にしても、彼女自身のアルバムの「letter writer」にしても。

こういうと俺がただの豊崎愛生のファンみたいに見えるけど、多分、客観的に見て、このように評価するのが妥当だと思う。

でも、それって声優に限らず、一般人の仕事にも言えることだと思うんだよね。大して「いい仕事」でもないこと、でもその人がやることによって価値のある仕事ってあると思うんだよね。

この世のありとあらゆる、すべての仕事がそうだと思う。ただ「やってればいい」ってもんではないと思う。

俺は、豊崎愛生の「歌っている表現力」からそれを見出す。