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日本で行われると「それ」はダジャレになるし、アメリカで行われると「それ」はラップになる。

I desert the dessert. デザートを捨てる。

I have a daring darling. 私は勇敢な彼氏を持っている。

The vague vagina. ヴァギナは見えにくくてはっきりしない。

 

やっぱり「ラップ」は「ダジャレ」なんだよ。日本で行われると「それ」はダジャレになるし、アメリカで行われると「それ」はラップになる。

 

似たような言葉をつなぎ合わせて言葉遊びをして、自分たちが使っている言葉を自分たちが使っている言葉として再確認しているんだよ。

 

こんなにもオシャレさに違いがあるけれど「それ」は同じものだ。

 

The bare bear drinks beer. 裸のクマがビールを飲んでいる。

人間は大いなるものの存在を考える時に、そこに神を見出す。

人間は大いなるものの存在を考える時に、そこに神を見出す。

 

神の概念は、人間の広がりと供に運搬されてきたのではないか。

 

キリスト教ユダヤ教イスラム教が信仰している神は、実は同じ神だ」とはよく言われることだけど、実は人間が信仰している神はすべて同じ起源を持つのではないか。

 

言語や知能が人間に内在しているように、神もまた人間に内在している。

Thanksgiving Dayって、日本で言ったらお盆だよな。

アメリカは「収穫が取れたぞ!」って祝ってお休みをするのに対して、日本のお盆は「死者を迎える」ためにお休みをするのだから、なんて陰湿なんだ。

日本がネガティブなことに対してお休みを取るのに対して、アメリカはポジティブなことに対してお休みを取る。そういうところは西洋を見習った方がいいんじゃないか。

西洋がHalloweenやChristmasで子供たちに「施しを与える」のに対して、日本ではなまはげで「わるい子はいねーがー」だもんな。

この文化の違いは決定的だよ。何事に対してもこの文化の違いが影響を与えているような気がする。たとえば長時間労働の問題に対しても。

すべての問題をこの文化の違いから起点にして考えられる。

日本は西洋の文化を野放図に受け入れているように見えて、実は合理的な選択をしているのではないか。

まぁでも日本は日本で西洋の文化と接触する前に安定していた時期はあったしなぁ。でも文化の総力戦とも言える戦争で日本は西洋に負けたわけだよ。

いやいや、薬の副作用ってほんと怖いからね?

 子宮頸がんワクチン副作用「問題」はなぜ起きた?

www.buzzfeed.com

ここで「トロッコ問題」が応用できますよ。正義に関わる哲学の問題です。

 

「トロッコ問題」とは、止まらないトロッコが引き込み線を走っている。その先には5人の作業員がいる。そのまま行くと、5人が全員犠牲になってしまう。しかし、そこには分岐線があって、分岐先に切り替えると1人の犠牲で済む。分岐を切り替えるのは正義か否か。

 

これね。リベラルな立場からすると「切り替えない」のが正義なんですよ。「1人の犠牲で済めばいい」は単なる功利主義なんです。「切り替えない」のは義務論です。トロッコ問題では「誰かを他の目的のために利用すべきではない」の一言でまとめられます。

 

医者は功利主義の弊害を考えたことがあるのか。

 

自然状態では子宮頸がん患者が5人出るが、子宮頸がん患者を5人救うために、副作用患者を1人敢えて人為的に作り出す。これはトロッコ問題そのものじゃないですか。

 

功利主義が反正義であることも、この世の中にはあるのですよ。

「いい曲」というのは、「曲自体がいい曲」と、「歌っている表現力」の、2種類に分けられるんだよ。

音楽を作っている業界の人には常識のことだと思うけど、

「いい曲」というのは、「曲自体がいい曲」と、「歌っている表現力」の、2種類に分けられるんだよ。

「曲自体がいい曲」というのは、「誰が歌っても」いい曲なんだよ。だから、辛辣な言い方をすると、歌っているのがその人である必要がない。誰が歌ってもその曲は売れるから、歌い手の差し替えがいくらでも可能だ。「曲自体がいい曲」とはそのことをいう。

一方の「歌っている表現力」というのは、辛辣な言い方をすると、曲自体は別に大して「いい曲ではない」んだよ。でも、その人が歌うとすっごく「いい曲」になるんだよ。だから、その曲が「いい曲」であるために、その人が歌い手である必要がある。それが「歌っている表現力」の意味だ。

俺は、文化放送の声優ラジオとか、文化放送系列の「超!A&G」の超ヘビーリスナー(だと自分で言っちゃうけど)、昨今の声優たちの出す曲って、ほとんどが「誰が歌っても」いい曲なんだよね。作曲家の作曲技術の蓄積の積み重ねによって「いい曲」としてすでにできあがっているものに、声優が声を当てているだけ。

だから、その人が歌い手である必要がない。

でも豊崎愛生が歌っている曲は違う。彼女は「自分が持っている人間としての表現能力」を使って、その曲を「いい曲」にしている。俺は、そっちの方が表現者として、本物だと思う。空前の予想外に大ヒットをした「Cagayake!GIRLS」にしても、彼女自身のアルバムの「letter writer」にしても。

こういうと俺がただの豊崎愛生のファンみたいに見えるけど、多分、客観的に見て、このように評価するのが妥当だと思う。

でも、それって声優に限らず、一般人の仕事にも言えることだと思うんだよね。大して「いい仕事」でもないこと、でもその人がやることによって価値のある仕事ってあると思うんだよね。

この世のありとあらゆる、すべての仕事がそうだと思う。ただ「やってればいい」ってもんではないと思う。

俺は、豊崎愛生の「歌っている表現力」からそれを見出す。

方程式って便利だな

なんで小学生では方程式教えないんだろう。あくまで算数だからということで鶴亀算でいいのか。

小学5年生の内から、方程式を教えればいいじゃん。

鶴亀算なんて進学校向けの塾でしか習わないし、専ら中学受験しか目的としていない学域じゃん。標準的な教科書の範囲を超えているという言い方もできる。

鶴亀算はもちろん受験者のIQや考え方的なものを問うているんだろうけど、それでもなぁ…。

それこそ「鶴亀算なんて実社会では使わない」よ。方程式の方が「正確」だし、「一発」だ。しかも、実社会で使っているのはすべからく方程式だ。経済学の学問しかり、Excelの式入力しかり。

したがって方程式は小学生の内から教えるべき学域であると考えられる。英語を中学生から小学生の内から学ぶべき学域に前倒ししたのと同じことだ。

資本主義社会をこれからも続けていくには

ねぇねぇ、じゃあ、資本主義の下では他人に親切にしてはいけないってこと?

他人に親切にするときに資本主義の下では、必ず、その差益をお金によって発生させて、頂かなければならないことになる。

もしくは、自らの資本主義活動にプラスになる形でしか、他人に親切にしてはいけない。

他人に親切にすることによって、見返りを求め「なければならない」。このように言い換えることもできる。

そのときボランティアとは、贖罪のためにのみ存在することになる。

資本主義社会を貫徹し、資本主義社会を生き抜くためには、論理必然的にこのような形になるが、それでもいいのか。

というより、もはやこの世は資本主義だ。

それでもいいのか。

それでもいいのか、と聞いているんだ。